榛原誌

榛原トリコ・夜・芯etc…榛原たちの湘南暮らし

シナリオライター/文筆家/お仕事の依頼はtoriko.haibara@gmail.comまで。


10月9日・10日

10月9日

寝しな、ベッドの中でゴロゴロしながら娘がとつぜん、「わたしはサンタはいると思う」と言った。いると思う理由を次々と述べる。

「でも、クラスの何人か、とか、マンガとかで、サンタはいなくてパパかママがやっているんだって言ってたりする。でもわたしはいると思う」

あなたがいると思うなら、それがほんとうなんじゃない?いると思うひとのところにしかこないしね、と私は言う。「でも、ほんとうのことは、自分が知ってればいいんだよ、だれかにわかってもらわなくてもさ」

それと、と言って、どうやらうちに来るサンタは、9歳が最後みたいだから、10歳になったら、ママがその分プレゼントあげるよ、と伝えた。

「ママもパパもサンタにプレゼントもらえなくなるの?」

「ママたちには、子どもにプレゼントを届けに来るついでにくれるだけだから。サンタはもっと小さな子のところに行かないといけないみたい」

小さい子が好きな娘はそこで深く納得をして、「ぜったい人が足りないよね〜」とサンタに同情していた。

 

 

 

10月10日

伊東屋のmtのマスキングテープのイベントと、友人の個展と、イトコとランチをしに、銀座へ。

伊東屋では無事フルーツサンド柄のマステを手に入れ、友人の個展では美味しい珈琲となつかしいチラシとかっこいい最新作を楽しみ、イトコとは彼女の好きなインドカレー屋で待ち合わせをした。

 

まずは千葉の田舎の話になり、新しめ施設が軒並み壊滅的になったことや、なじみのお店のマスターの怪我の具合、商店街の様子、お墓と交通の心配をする。

はやく様子が観に行きたいけれど、復旧作業のジャマになってしまっては申し訳ないし、お店がやらないことにはお金も落とせずやきもきとする。

 

その次は、愛知トリエンナーレについて。私のまわりでは唯一実際行ってきた人間で、かつ彼女はギャラリー勤務で現代アート畑にいるので、どうだったのか、話を聞いた。

開口一番は「行って良かった」。展示の様子を聞きながら、私たちは深く話し合った。私は現代アートがけっこう苦手で、その苦手な理由は、現代の社会問題を生々しくぶつけてくるからで、その方法が時に稚拙なものに感じるからで、けれど同じ時代を生きて表現しているものとしてがんばって観るようにしている(観ては大体神経に障って腹を下すか目を回す)。

理解はできていないと思うけれど観に行っている数はそれなりにあり、だから、こんなのは現代アートじゃないというほとんどの人は、現代アートを、ぜんぜん観に行ったことないんだろうなと思う。

今、私たちが観ている古典のアートだって、隠し方の度合いはあれど、当時の権力者や社会や宗教制度の批判に溢れている。いつの時代も概ねそうだったのではないか。

 

ネットで流れて来る不自由展の展示物については私は率直に嫌だなと思う。下品だし、ぜんぜん好きじゃない。腹もたつ。

けれど、それはただの、受取手の(しかも生で観ていない者の)感想だ。嫌だからといって、それを排除しようというのはちがう。

理解ができなかったり、嫌いだという感情に、もう少し、日本人は慣れるべきなのではないだろうか。嫌いだと思うことは不快だけれど、悪いことじゃないのだ。

嫌いという感情の扱いになれていないからそれ以上機会があっても知ろうとせずにただそれを排除しようと制度的ななにかを作ろうとしたり、いじめやなにかに発展してしまったりするのではないか。ただ黙って嫌いであればいいのに、正義に変換しようとしてまわりをまきこんでみたり。

嫌ったり嫌われたりイヤだったりすることは当たり前にあることで、そのいっぽうで好きや好かれたり幸せということもある、でこぼこはそこにあるのに、日本にいて一定のものしか見えていないとそのようなことすら人為的に均一化できるよう錯覚してしまうのでは。

 

誕生日にジョーカーを観に行こうと思っているのだけど昨今の、ヴィランには実は同情できる過去があったり全ての人がなりうる的な不運がありましたな話だと萎えるからどうなのかな〜と言っていたら、すでに見て来たという同じくダークナイトのジョーカー好きのイトコに「あのジョーカーが好きなら、誕生日に行くのはやめといたほうがいい」と言われる。懸念していたかんじなのかしら…。

 

帰りに寄ったスーパーで、豚肉と、カップ麺が品薄になっていた。

明後日関東に来る台風は、いよいよ本当に、前回よりも、深刻なものらしい。

 

 

黍嵐詠み合う歌が合い言葉逆風の中心点にいざ