7月26日
フランスから帰国している友人親子と横浜で落ち合う。
子どもはぜったい好きなので、と、カップヌードルミュージアムに案内したが、フランス生まれの友人の子は、日清のカップヌードルの、あのパッケージすら知らないのであった。
それでも同い年の子どもたちは、パッケージに絵を描き、好きな具とスープを選んでオリジナルヌードルを作り、"自分たちが麺となって出荷される"というテーマで作られているアスレチックを楽しんでいた。アスレチック内で、二人はお話を作って遊んでいたらしい。迷子になった麺の双子として、カップヌードルの森を、お母さんの具を探す旅をしていたのだそうだ。麺の双子という物語性の強さ!
友人は、先日いっしょに行ったキッザニアもそうだけれど、フランスにはビルの屋内でこのように子どもが遊ぶような場所はないので娘はとても楽しいと思う、と話した。
それから、館内のスタンプラリーをさして、これもフランスにはない、まずこのような発想はうまれない…と言う。え、そうなの?と率先してスタンプを押していた私は驚く。なぜないのだろう?
「やっぱり日本人は、収集することが好きだから…」と言われ、日本人以外はそうでもないのか!?ということがカルチャーショックだった。
私はスタンプを見かけたら、とりあえず押したい。しかしそれが個人の性質ではなく、民族性だったとは。
スタンプを押し集めたい謎の民族、未来、古代史に載れ、マンホールの蓋と共に。