12月19日〜1月24日
日記を書かないまま、1ヶ月以上経ってしまった。
何か書けない事情が起きたわけではない。
鎌倉のレンタル着物のお店にアルバイトに出るようになって生活リズムがうまくつかめなかったのだ。それと休日の半分は、父の病院の付き添いに使われてしまって、残りは本を読んで、録りためていたテレビ番組を消化して終わってしまう。
今は、CATVで放送している時効警察をみている。すごく面白い。今年の本放送までに、全部見てしまいたい見てしまわないとならない。
私は今、金土日の3日間と、他の平日を2日程度働きに出ている。
ただし今は閑散期で、今日も急遽休みとなったし、用事がある日などは休んでいるから、がっつり週5日働いているというわけでもない。
江ノ電に揺られ、英語や中国語のラジオ講座を聴き、海を眺めながら通勤しており、海を全然見飽きない。こんなに飽きないのだから、私はまだまだ湘南の人間じゃないのだろう。
父は、結局私たちとクリスマスや正月を過ごすことよりも酒とタバコをやることを選んだ。
我が家も娘がインフルにかかり、結局クリスマスに妹の家には行けなかった。来年は長男が受験だから集まれないと思うと聞いている。このままなし崩し的にクリスマスは集まらないようになるのかもしれないと思うと寂しい。
娘は熱が引いた後全身に湿疹が出て(肌の弱い子はしばしば高熱の後に湿疹が出る)、体力も落としていたので、恒例となっているイトコとの、千葉の田舎への墓参りと物資調達にも行けなかった。
年が明け、妹の家でしゃぶしゃぶを食べてお年玉とクリスマスプレゼントをやりあって、三が日父がなにをしていたかは知らない。
4日には妹に付き添われて入院をし、7日に私に付き添われ脳腫瘍の手術をし、18日には退院した。術後直後のICUではこんな状態で、たった1週間で普通に暮らせるまでに回復するとはまったく思えなかったが、本当に先生の言う通り、良くも悪くもならず、中身は元気いっぱいで退院したのだ。
父を見舞った妹は、向かいのベッドの老人がカーテンを開けるほどの喧嘩をし、退院に付き添いに行った私も、父と喧嘩をした。
まわりの人間がもういよいよほんとうに一人暮らしは無理だと思っているのに反し、父は、なぜ駄目なのか全くわからないと繰り返していた。そして高齢者向け住宅の引越しを薦める私と妹を、ひどいと言ってなじるのだった。ひどいかどうか、パンフレットだけでも見てみてよお父さんが考えてるような場所と全然違うんだから、今度倒れたらそれこそお父さんが入るのが嫌だという老人ホームにしか入れなくなっちゃうし、入りたいって言ったときには空きがなかったりするんだよ、と説いても、興味のないものは興味がないんだから知る必要ないの一点張りで、それで、今後はケアマネと二人三脚でやっていくのだからお前たちはいい、と言うのだった。そんなこと言ったって、お父さんの不摂生のせいで病院から呼び出されちゃうのは結局私たちなんだよ、と訴えても、うるさそうにするだけなのだった。
介護保険は、要支援1の診断が下された。
私も妹も父に振り回されることにほとほと疲れてしまって、しかも父に振り回している気がないことにほとほと頭にきて、もうしばらく父と関わるのはやめようということになった。けど、心配性で情の深い妹は、しばらくしたらきっと父を尋ねてしまうだろう。
夫と娘がやっている365日貯金が2年分たまり、そのお金で娘の誕生日に、大阪のユニバーサルスタジオジャパンに行こうと夫が言い出した。
本物のお笑いの舞台が見たいと言っている娘のために吉本も見てみたい。キャンプ以外の家族3人だけの旅行は、はじめてだ。
イトコにその計画を言うと、だったらついでに京都も行こうよ!と言い出したので私は慌てて、そんな計画を立てたら大阪までぽしゃっちゃうからとりあえず今は大阪にしか行かないっていうことで、と、私の京都行きを常に阻む何者かに聞かれぬよう声を潜める。
イトコは声を潜め、でも大阪から京都まで、電車で30分くらいだよ?とそそのかす。
土日の夕飯は、夫と娘に、土井善晴先生の基本的な料理本を渡し、この中から自分たちが食べたいものを作るようにと伝え、2人はハンバーグやら生姜焼きやらを選んでは作ってくれている。疲れて家の玄関扉を開けると台所からいい匂いがしてくるのはほんとうに最高だと知った。
アルバイトは楽しくて、しかしあんまり稼げない。そのほうがいい。ここで完全に稼げてしまったら、私はきっとも何も書かなくなるだろう。
そうなのだろうか。
そんなことで書かなくなるようなら、もう私の中に、書きたいことは何も残っていないのでは?
そうなのだろうか。