榛原誌

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シナリオを担当したパズルゲーム 「ハローキティとまほうのおもいで」がリリース!




7月9日

1月の家計簿をようやくつけ終えた。6月分のみ終えているので、あと4ヶ月分たまっている。俯瞰で見れば、「たまっている」というより、「家計簿をつけていない」といったほうが正しいのではないだろうか。

 

それにしても頭痛がひどい。湿度の高さのせいだろうか。洗濯物の一部が、一日干していたというのにまったく乾かなかった。空気を絞れば雨粒が垂れそうなほどだ。

 

ミシマ社のあたらしい取り組み「手売りブックス」、いしいしんじの「きんじよ」を購入。ジュンク堂藤沢店で売られていたものを買ったのだが、手売りシールが貼られていなくて残念だった。読書中、京都への、すでに嫉妬と化した憧れが募る。

いしいしんじのエッセイは、土地と物語の匂いがし、ほんのり不思議も入っている感じがする。それが、しぜんなことみたいに読めるところが、すばらしい。15年ほど前の自分の日記が知人らに「酔っている」と評されたことを思いだす。忘れたい。

 

 

SNS上で、ある文筆家が、「小説って半分くらいは文章が下手。プロットだけよければいいならマンガにしちゃったほうがいいんじゃないの」と云っていて、驚いた。

小説って、文章のうまさを読むものなのだろうか。

私は小説を、文章がうまいかどうかで読んだことはない。考えたことがなかった。

読みにくいな、読みやすいな、と思うことや、これはなんと言い得て妙という一文に出くわして、その説明を人にするとき便宜的に「うまい」と言うことはあるけれど…

むしろ小説って、うまいってわかっちゃったらその時点でちょっとダメなんじゃないの、とすら思っている。だからといってたとえば日本語として不正確な文ばかりでいいというわけではないけれど…。それにそもそもプロットだけだったら、小説のプロットは弱いと思うし(昔漫画のプロットづくりの仕事をしていて小説だったらいいかもしれないけど的なことをよく言われた)。

そのひとは、文章がうまくなかったら、小説を面白く感じないのだろうか?

 

うまいかどうかのその向こう側にある、すごみみたいなものを、私は読みにいっている。私にとって読書とは、潜水して、魚や貝を見たり採ったりするかんじ。波そのものを感じたり、知っている魚を見たり、見た事もない生き物に触れたり。すごく近づけて、息づかいまでわかるときがあって、そういうときはものすごく興奮する。息継ぎしなくてもずっと泳げる小説もあれば、視界が悪くて何度も海面にあがらなければならない小説もある。後者だとしても、手探りに掴んだ泥の中に、すてきな石を見ることもある。

 

私が読みに対してもだらしがないから、そんな風に思うのかも。

 

書き手としては、もっともっとうまくなりたいとつねづね思っている。

その人はたびたび、自分の文章が自分という読み手の中でいちばんうまいと思っていると云っている。だからこそそこが気になって、下手な文章で、とイライラしているのかもしれない。私はうまくないと思っているから、イラつかなくてすんでいるのかも。

まあ、でもなんか、とにかく、著名な文筆家がそんな乱暴なこと言うなんて、衝撃的。