2月28日、3月1日
2月28日
「グレイテスト・ショーマン」を観る。
さんざん流れている予告ですっかり私は「ラ・ラ・ランドの製作チームで贈る…」が監督含むと勘違いしていて、観ながら、いったいどうしたのチャゼル?と頭がクエスチョンマークでいっぱいになっていたが、見終わってからわかったのだが、「ラ・ラ・ランド」の製作チームとは、音楽のことだけだったので驚いたし納得もした。
映画は、中学生が観たら大感動するだろう、というような内容で、伝記らしさが満載だった。ショーと象はいつも良かった。ショー部分だけをDVDで何度も観たい。曲も良かった。生でこのミュージカルを観たら大感動しそうでもある。しかし、内容が、ミュージカルとしての組み立て方が、あまりにもスタンダードすぎた。なんだろう、IMAXで観ているのに、臨場感が薄い。煽られない。なぜ。
そして私は若かりし頃のザック・エフロンが大大大好きで、久々に彼のミュージカルが観られる!しかもベンジ・パセック&ジャスティン・ポールの楽曲で!!!!!と大興奮して臨んだIMAX2Dであった、のだが…。「ダーティ・グランパ」のカラオケシーン(あまりにうますぎて、あんたほんとにそれ素人なの…?と言われるザック・エフロンいじりなだけのどうでもいいシーン)の方が感動した(あの映画を見に行くほど好きだということだ)。そのことがかなしかった。
江の電で、目の前に座っていた男子学生が、「グレイテスト・ショーマンはぜったい観たほうがいい、ちょー感動する」と友だちらに言っており、「ラ・ラ・ランドの監督の人のやつだよ」と言っていたので、ほら!!と思ったし、夫に「あれ、監督ちがったよ」と言ったら「ちがうの!?」と驚いていたので、けっこうたくさんの人が誤解したと思う(そしてあの学生のように見終わっても誤解したままのひともけっこういるのかな…)
3月1日
「15時17分、パリ行き」を観る。本当にあった話は苦手だ。けれどタイトルがすごく良かったことと、いかにして困難を脱したのかが知りたくて観る。
電車の中のシーンが主なのだろうと思っていたのだが、電車に乗るまでのシーンが9割の映画だったので驚いた。
なぜ、この3人組はずっとコミュニケーションがシャイなのだろう、なるほどいじめられっ子だったからそれを表現しているのか…などと納得していたら、見終わってから犯人以外の乗客・救護・乗務員などとにかく全員が、本人役で出ていると知って、飲んでいた水を吹き出しそうに。そんなことって…。それって映画…なの?
途中から日本の2時間サスペンスドラマみたいな、ただただ名所などを楽しんでいるシーンが流れ、謎の構成…と思っていたのだけれど、単に、事実に忠実だっただけなのだとも知る。
映画とはなにかをとても考えさせられた。映画とは、なんなの?
鎌倉 華正楼
結婚記念日でした。
10年目なのでいいものでも食べようと、前々から気になっていた長谷の大仏さまの前にある華正楼の鎌倉店に行ってきました。
箱根ぽさある。ビール飲みたいから江ノ電で来ました。
泊まって帰りたい。
靴を脱いであがり、うちは娘もいるので畳の部屋にしてもらいましたが、椅子席の部屋もあります。
娘ははじめて触るダイヤル式の電話に夢中。
本日のメニュー。ダイヤモンドのかわりに、1人1万円のコースにしました。
娘は2500円くらいのキッズメニュー。
最後はごはんや麺ではなく、点心でした。デザートのジャスミン茶のババロアが超〜美味しかったので(ババロアの上にジャスミン茶のジュレが乗っている)、あれだけ喫茶させてほしい…。
とっても美味しかったし、量も少なくて、2人だけど中華を色々堪能できたのがうれしかった!
平日に行ったから空いていたけど、休日は混んでいるのかな〜?
入学式とか七五三のお祝いはここにしてと娘が言うが、予約取れるかな?
今度はもっとたくさんの人と来たい!コースも6000円からと、建物の割にリーズナブルです。
2月27日
幼稚園に、課外授業の発表会を見に行く。
娘の所属する体操クラブは最後の出番で、全ての出し物が舞台上で行われた後に、園児及び保護者たちがホールの真ん中に道を作るようにして座り、体操クラブの子どもたちは花道の先に置かれた跳び箱を飛ぶ。年長児しか出られない、花形の舞台だ。
跳び箱の段が一段ずつ増えるたびに、園児たちは盛り上がる。私は体育座りをして、7段を、それを飛ぶ娘を、ホースで高く撒かれた水を見るように、見上げた。見上げる私の視線は、また、小さな子どものそれでもあった。その憧れは、ひとへのものではなく、なにか自然物への尊敬のようでもあった。
先生の補助もあり、美しく跳ねたというわけでも誰よりも高く跳んだというわけでもない、それでも私はその数秒間を目の前に取り出して、何度も何度も何度も再生しては感動する。
恋愛であったり、夫婦だったり、友だちだったり、関係にはすべて、それでしかあり得ない宝物のような瞬間をもらえるものだけれど、子を持つ親としてもまた、たまに、そういうものをもらえる。今日はそれをひとつもらった。