大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2日目
さて2日目。
↑1日目はコチラ
朝ご飯。味噌づけなのか粕漬けなのか、鮭がおいしかったよ。あとお米とお茶おいしい!!
チェックアウト後、松之山エリアをまわります。
とにかくたくさん見てまわったので、写真はほんの一部ですが。
途中、星峠の棚田などなどを見つつ松代エリアへ
これがすごかった
空き家のいたるところを
彫っている
とにかく家のいたるところ、一階から二階すべて
漆喰の壁も、木の壁も
さいしょは、凄惨な殺害現場の跡地に来たような印象だった。すさまじいことがおこったあと、のような。
それからだんだん、伊藤潤二のマンガみたいだな…と思い始め
この家だけが未来に残ってしまったら、いったい未来のひとは、私たちのことをどう思うだろうとか考えたり
掘った道具たちのそばで、
日大の映像学科の子たちが撮った、この作品のドキュメンタリーが流れていて、雪深い中ノミの音が響いていて、それもすごくよかった。
最初はこれまさか一人で…と狂気を感じたけど、たくさんの子での作業と知って、作品として受け止められた。
この家に泊まれるということも衝撃。
を観たりしたあと
2014年3月に閉校した元奴奈川小学校の、奴奈川キャンパスへ。
入り口にあったご自由にどうぞのお水がめちゃめちゃ美味しかった。
新潟県の名水に選定された、実昇清水だそう。
それにしてもほんと、どこいってもお水とお米がおいしい。
「大地のおくりもの」鞍掛純一+日本大学芸術学部彫刻コース有志
エントランスの作品。こちらも日大の彫刻の方々。
「脱皮する家」とはまったく違い、とてもかわいらしい作品。
とくにどうぶつがかわいくて接写してしまう。
トートバッグとか木彫りの栞とか、脱皮する家の手ぬぐいが売っていてすっごく欲しかったのですが、節約月間なので我慢…。
「空への階段|レミニッセンス(おぼろげな記憶)」ターニャ・バダニナ
カメラのピンぼけではなく、こういう作品
なんとなく心にのこってしまった作品。。。
迫力が私のカメラで伝わらない…
お昼ご飯は、へぎそば屋さんでタレカツ丼。
はじめて食べたけどすごくおいしかった!
薄いのでサクッと食べられちゃう。また食べたいやつ。あととにかく米が(略
おつぎは十日町エリア
廃校になった小学校がまるまる美術館になっています
「カラダのなか、キモチのおく。」田島征三 + アーサー・ビナード
校舎の横の巨大マムシ
給食室のカフェが良さげだったので今度はここでごはん食べたいな
ヤギたちもいました
またまた移動しまして
「Kiss & Goodbye|思い出ポスト」ジミー・リャオ
倉庫内では絵本「幸せのきっぷ Kiss & Goodbye」の原画や
アニメーションが流れており
原画めちゃめちゃ良かったのだけど、印刷された絵本はその良さ(タッチや色)がぜんぜん別物みたいだった。あのかんじのまま本になっていたならぜったい買ったのに…残念。
さて他にも諸々観まして、最後、わたしが今回いちばん観たかったところに行くため、初の中里エリアへ。
全長750mの不穏なトンネルを抜けていった先
「ペリスコープ/ライトケーブ」マ・ヤンソン/MADアーキテクツ
旅のクライマックスにふさわしいアート。
実は、人がいなくなった瞬間もあったのだけれど、私は人が(人影が)いたほうが、心に響く風景でした。
ここに紹介したものの3倍は観てまわったのだけれど、2日間でけっこうまわれた!
新潟県ってスキー以外で行くことがなかったのだけれど、お米もお水もおいしくて、温泉も良かったので、まわれなかった津南含めて3年後もまた来てみたいと思いました!
車でまわるのすごく楽しかった〜!
9月6日
朝起きてiPhoneを開くと、北海道で震度7の地震が起きたというニュース。
北海道全域で停電とのこと。
大阪の台風被害につづき、なんということだろう。
一階に降りていくと、娘に良い知らせがあったとかで、彼女は小躍りしていた。
私もわーっとうれしくなったが、北海道のことで胸のあたりがザラザラする。
娘の今日の登校荷物は、ランドセル、教科書とノート、筆記具、夏休み中に借りていた本2冊。
一人になった後気を取り直そうと、録画していたお笑い番組の、好きなところだけを何本も見て、笑い、よし、洗濯物を干そうと立ち上がって歩く目の端に、スジエビのちょろちゃんが水槽内でふわっと浮いたように見える。
え、と振り向き、水槽に駆け寄る。前もこんなことが水換えの後にあって、そのとき白っぽく横たわっていたそれは脱皮の抜け殻だったから、今回もと思いきや、ちょろ本体であった。スケルトンボディのちょろの中身が白くなっていた。前にネットでスジエビを調べていたときに、死ぬと白くなると書いてあったのを見て、その通りだった。
私は、ああと叫んで、ちょろの名前を叫び、水槽を叩いていた。波紋に少し揺れるだけで、石にかえられてしまったように、動かなかった。
下校時、娘を校門まで迎えに行き、いっしょに帰りながら、ちょろが死んだことを伝える。塾に行く前に庭に埋めてあげよう、と言うと、娘はちょっと考えてから「花壇用の札に、ちょろのおはかって書いてさしてもいーい?」と聞いてきた。もちろん、と答えながら、悲しむ様子もなく、むしろ札に字を書くことを楽しんでいる娘をいぶかしんで見ていた。
白くなったちょろを、めちゃくちゃ不気味がって嫌がりながら、娘は庭に運んで埋め、札をさっさとさして、水槽のエアレーションを止めると、さあいこう!と塾に向かった。
全然泣かないどころか、サイコ…?と思いながら、ああそうだと思って、リレーの選手、どうなった?と聞くと、娘はパッと顔を明るくして拳を天に突き立てた。
2人だけは決まっていて、あとの2人を決めるために、同タイムの3人を走らせたそうで、娘はその2位、つまり4人中の4番目として、ギリギリで選手になれたのだという。
わー!おめでとう、やったね!!と盛り上がる。
胸には喜びと、懐かしさが広がる。私自身は徒競走万年ビリだったが、妹はいつもリレーの選手だった。リレーの選手の身内を応援することは、私にとっての運動会の風景のひとつだ。
それから今日は、友人の子の誕生日だと知って、週末ふたりでカードを書いて贈ろう、と楽しい計画をたてた。
塾から帰った娘は、ようやく念願の、漢字の勉強に入ってご機嫌だった。
ずっと漢字やりたいって言ってたもんねぇ、よかったねぇと言って、やることやってお風呂入ったらゲームする〜と浮かれている娘を一階に残し、二階で仕事をしていると、とつぜん娘の号泣が聞こえてきた。
また、どこかに頭でもぶつけたのかな、と降りていくと、バスタオルを両手に抱えた娘が、水槽の前で「ちょろが死んだよぉぉぉぉ!ちょろちゃんが死んだよぉぉぉぉ!」と慟哭していた。
え、なんで、このタイミング、と戸惑いつつも、娘を抱きしめて、背中をさする。そうか、リレーの選手になったことや漢字の勉強の興奮もおさまって、やることを全部やって、水槽が目に入って、ようやく、死と不在が、つながったのか。
自由研究でちょろの観察記をつけていた娘のまとめには、「飼っているうちに、どんどんしりたいことがふえました。これからも、ちょろちゃんを大切に育てていきたいです」と結ばれていた。しりたいこと、の中には、「ちょろはどのくらい生きるのか」も入っていた。飼いはじめてから、丁度一ヶ月だった。
寝る前に、娘はマンガを、私は宮部みゆきの「あんじゅう」の中に収録されている表題作を読んでいた。人ではない黒いものと老夫婦のあたたかい交流、しかしそれは、人とふれあうと弱り小さくなっていくのだとわかる。愛しさ故に、離れなくてはならないが、離れたくない。どんどん小さくなって弱まるそれの物語を読みながら、私はボロボロ泣いた。読み終えても、だらだらと涙は流れ出続けた。ちょろのかわいかった仕草ばかりが思い起こされる。名前の由来のチョロチョロと動く足は、泳ぐための腹肢(ふくし)というのだ。ああ、私もようやく泣いた、と思った。
悲喜こもごも、感情が揺さぶられすぎたせいか、腹が下りつづけ、トイレに何度も駆け込んで、スイッチがバツンと切れたように、眠った。
9月5日
娘の今日の登校荷物。ランドセル、教科書、筆記具、ねんどセット、ねんど板、体操着。
ようやく晴れて、洗濯物が外に干せる。
仕事が減ったこともあり、2学期から、習い事の曜日をずらして、学童の日を減らし、平日の週に1日は、娘を暇にさせることにした。
予定を詰め込みたい娘は当初これに大反対していたのだが、夏休み中に出来ることが増えたため、こんなことも一人でしていいんだよ〜とそそのかすと、娘は、図書館に行ってコンビニでおやつを買い、帰宅後にスプラトューンのネット対戦をやる、という計画をたて、首に携帯電話をぶら下げ出かけると、本とマンガをめいっぱい借りて、アイスを携え帰宅した。
スプラトューンを終えると、娘は前日にバケツに汲み置いた水で、スジエビのちょろちゃんの水槽の水換えをした。
ちょろちゃんはどういう仕組みかわからないが、朝昼晩、娘が水槽を通りかかると、餌をくれとばかりに泳いでアピールする。餌を入れると、上手にキャッチして、両足で抱え込んでかじっている。身体がスケルトンなので、かじられた餌が、頭のほうにどんどん送られていくのがよく見える。
私も娘も、ちょろが餌をキャッチして食べる姿を見るのがだいすきだ。
娘に、リレーの選手決めはどうだったか尋ねる。
2人ずつ走り、タイムを測って、結果はまだ言われていないらしい。
何秒だったの?と聞くと、「10秒60か、11秒60」とのこと。1秒でずいぶんと違うことになるし、10秒60も別段速くはない。選手は難しいかもねと言うと、
「でも女子の中で2番目くらいに速いと思ったな」と、根拠のない超主観的自信に溢れた物言いをするので、夫にそっくりだな、と思いながら、なれるといいね〜と同調をしておいた。